ビートルズファンにとっては馴染みの深すぎるプロデューサー、
ジョージ・マーティン卿が90歳で亡くなった事が発表されました。
2016年3月8日の夜、との事で死因は明らかになっていませんが
90歳なら大往生ですよね。お疲れさまでした、という言葉を贈りたいです。
僕自身がジョージ・マーティンという名前を意識したのはいつだったでしょう。
ただレコードをさらりと聴いてるだけでは知らない人もいるかもしれませんが
レコードやCDに書かれたライナーノーツや伝記本などを読むと、
これでもか、というぐらいに名前が出てくるマーティン卿。
多分僕はライナーノーツを隅から隅まで読むタイプなので、
かなり早い内からマーティン卿の名前を知っていた気がします。
1stアルバムから聴いていったとしても2曲目の「ミズリー」のイントロのピアノから
彼の偉業を聴くことが出来ますしね。
アルバム「ヘルプ!」のセッションまでは鍵盤楽器はほぼ全てマーティン卿が
弾いているといっても過言では無いので、「5人目のメンバー」という言い方は
まさに正しいと言えるでしょうね。
1stシングル「ラブ・ミー・ドゥ」が録音されたセッション時、マーティン卿は36歳。
当時、22歳だったジョンから見るとたぶんものすごい「大人」、ヘタすると敵みたいに
見えてたんでしょうね(笑)
リンゴにとってみれば、次のセッションでは別のドラマーを呼ばれたわけですから
なんとも言えない気持ちだっただろうなあ・・・・・
今残る記録の中でたくさん知る事が出来るメンバーとのやりとり。
ジョージ(ハリスン)が言った「あんたのネクタイが気に入らないね!」発言から始まり
「シー・ラヴズ・ユー(ドイツ語)」の録音を嫌がってホテルから出ようとしなかった
ビートルズメンバーをホテルに乗り込んで引っ張っていったという、
まるで学校の先生と生徒のような面白いお話や、
「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のジョンの余りに無茶な要求に応える場面
そして「シーズ・リーヴィング・ホーム」でのポールとの行き違いなどなど
ずっとずっとメンバーと歩んできたからこその愛すべきエピソードの数々。
特に元々クラシック畑だったマーティン卿にとって、ビートルズのストリングアレンジなどの
クラシック寄りのアプローチはマーティン卿がいて初めて形になったのではないでしょうか。
それらが音として残って何世代にも渡って僕たちを魅了しつづけてきたし、
またそれはこれから先もずっと続くんでしょうね。
マーティン卿、本当にお疲れ様でした。
そして最大限の「ありがとう」をあなたに伝えたいです。
安らかにお眠り下さい。
彼の著書です。すでに絶版になっていてとんでもない値段になっていますが
これを機に再発してほしいですね。